第四回目は「湯泉地温泉の由来」です。
上の図は、明治五年に奈良県の出張所に提出された武蔵村図の控えです。
図の中心にある集落は「武蔵村」です。村はずれには「大将軍皇天神宮」があり、南に「大森山」北西に「湯泉地」の文字があり、南西には「武蔵尾」と「平瀬」の文字が見えます。
湯泉地温泉
昔時は東泉寺温泉と書いた。大字武蔵領にして、十津川本流の左岸にあり。数十尺の崖上より湧出し、付近は常に蒸気濛々と立登ってゐる。 今を距る三百十余年前、寛永年間発見せられたものなりと云う。古記録に天和四子年東泉寺を三村に引取り、小原村庄屋助左衛門三村総代となり、 南都に上り之れを頂戴仕とあり。之に依って見れば、二百五十年以前、既に発見されゐたことは明白である。
十津川河流に臨み、土地頗る(すこぶる)傾斜にして、浴舎断崖の上に設けらる。明治二十二年の水害以前には稍平地(しょうへいち)あり。
浴室二棟、客舎数棟、其他商店軒を列べて、薬師堂あり、中十津川村役場あり、
出典元:十津川郷
東泉寺縁起 宝徳02年(1450)
東泉寺は、温泉の守り仏の薬師如来を本尊として建立された寺である。
この縁起は、全文が漢文であるし、修飾の多い縁起文なので、抄訳して掲げておく。
大和葛城郡茅原の里に生まれた役行者が大峯を開き、天照大神をはじめ、熊野大神・玉置大神らの嘉納をうけて大峯修行の四十二の位階を定めた。 役行者が十津川の流れを分け行ったところ霊窟があり、その勝景はまこと薬師如来の住居にふさわしい。そこで加持祈願をおこなったところ、湯薬が湧出した。すなわち湯谷のおこりである。 そののち、弘法大師が弘仁末年から天長初年にあたって大峯修行をなされたとき、ここ湯谷の深谷において先蹤(せんしょう)をたずね、薬師如来を造顕(ぞうけん)された。(本尊の出現である) ところが宝徳二年八月七日、地震によって湯脈が変わり、武蔵の里に湧出した。しかし、或る時、猟師が武蔵のこの湯を汚したので、湯脈は再び十津川の本流に還った。 里人、ようやく湯薬の妙を知り、この湯に傷病を医した。天下の貴賎、このよしを聞き、輦(れん)輿(こし)舟(ふね)筏(いかだ)をかりてこの湯に雲集した。そして本尊薬師如来に香花を供え、報謝して去るを例とした。 |
十津川の湯は、河流の水中に湧出するものが多い。湯谷というのもその一つであろう。宝徳二年に武蔵の里に湧出したのがいつしか水辺の現地に移ったことを説明している。
出典元:十津川 学術調査報告書・十津川文化叢書合本
東泉寺古図写し 元禄元年(1688)
湯泉地の旧状を描いたこの古図は、東泉寺(本尊薬師如来、祐光山と号する)の湯を修復した時の見取り図と修復費を示しており、 この費用は三村区の6大字によって為された。各棟の名所から見ると、一般に開放されていたのは「入込之湯屋」だけだったように思われる。
これらの建物はすべて今よりはずっと下にあったことは云うまでもないが、明治の水害によって押し流されたりして潰滅、 その後も国道建設などによってこのあたりは随分と削られ、今はすっかり地形が変わってしまっている。 図に記された武蔵への道は今もあるが、現在の湯の里の前の急な石段はその後のものである。
出典元:林宏 十津川郷探訪録 民俗3
昭和の湯泉地温泉 昭和54年(1979)
昔は「東泉寺」と書いた、東泉寺は温泉の守り佛の薬師如来を本尊として建てられた寺である。 東泉寺縁起によると、この温泉は「役の行者」の加持祈願によって湧出したことになっている。
昔ここを訪れた著名人は佐久間信盛(1581)本願寺門跡顕如上人(1586)郡山城主豊臣秀保(1595)などがある。 いずれも療養のためである。泉質は「単純硫化水素泉」で、リウマチ、神経痛、婦人病、皮膚病などによく効く。
出典元:林宏 十津川郷探訪録 民俗3
湯の神薬師
上略図に描かれた田本義光家の一寸下手から石段を登ってコンクリートの落石シードの上に出、そこから鋭角に左折すれば段々道を少し登ってその前に出る。
山際の石積みの基壇上に新しい祠が大川に面して建ち、その辺りだけやや太い杉の木が3本際立っている。
鎮座は昔からで、かつての東泉寺の後身らしく、20年毎に遷宮が行われ、3年前にも造宮した。湯泉地温泉の守護神である。
祭りは毎年正月8日、三村区6大字と役場、それにここから湯を引いている湯の里、十津川荘、武蔵、中村などの旅館や民宿が寄って餅撒きをし、持ち回りの宿でご馳走をする。
出典元:林宏 十津川郷探訪録 民俗3
湯泉地温泉年表
宝徳02年(1450)東泉寺境内に温泉湧出。(東泉寺縁起)
天文22年(1553)本願寺僧が吉野郡の下市御坊(願行寺)から十津川に湯治で訪れる(私心記)
天正09年(1581)高野山に追放された佐久間信盛が十津川温泉で横死(多聞院日記)
天正14年(1586)本願寺の顕如上人が入湯(宇野主水記)
文禄04年(1595)郡山城主豊臣秀保が十津川温泉で遭難(東西歴覧記)
寛政03年(1791)温泉の湧出地について、湯原温泉は湯ノ原村と武蔵村の東泉寺温泉にあり(大和名所図会)
後に湯ノ原の温泉は大水害で枯渇。
十津川郷の温泉
十津川の温泉2箇所内1ヶ所は西川出谷にあり、1ヶ所は湯原にあり(東泉寺)此所に薬師堂1軒、此寺無本寺にて古より住僧なく、土俗年季請負にて入湯人は諸色商ふ。
此温泉古は諸国より湯治人多く来り賑り、湯原は東泉寺の湯これ也、十津川の温泉は出谷と湯原と2ヶ所也。
出典元:吉野郡名山図志
十津川郷と廃仏毀釈
明治元年(1868)神仏分離令
明治4年(1871)郷内51か寺(いずれも禅宗)仏祭を神葬祭に改める
明治6年(1873)郷内すべての寺院を廃することが認められた
出典元:十津川記事
まとめ
○ 湯泉地温泉の名称は、薬師如来を本尊とする祐光山東泉寺に由来すること。
○ 佐久間信盛(1581)本願寺門跡顕如上人(1586)郡山城主豊臣秀保(1595)などが療養のため湯治に訪れたこと。
○ 湯原温泉の湧出地は湯ノ原村と武蔵村の東泉寺温泉にあったこと。
○ 湯ノ原の温泉は明治の大水害で枯渇したこと。
○ 湯泉地温泉の湯は、リウマチ、神経痛、婦人病、皮膚病などに効果があること。
○ 薬師堂は東泉寺の後身らしく、20年毎に遷宮が行われていたこと。
○ 東泉寺の建物はすべて今よりはずっと下にあったこと。
○ 明治の水害や国道建設などによってこのあたりの地形が変わってしまっていることなどがわかります。