日本経済新聞

 井門 隆夫氏のコラムの記事より抜粋

2015年(平成27年)1月24日(土曜日)

奈良県の最南部にある十津川村。東京23区の面積より底いこの村には鉄道の駅はなく、どこから訪ねるにも時間のかかる秘境の地だ。 村の中心には良質の温泉が湧き、十津川温泉郷となっている。日本最長距離を走る路線バスに乗り、村へ向かった。

奈良県のJR五条駅前の停留所でバスを待つ。十津川温泉郷に向かう奈良交通の「八木新宮線」は、 奈良県の八木を起点に和歌山県の新宮まで通じ、バス停の数は167。全線乗車すると6時間半かかる。高速道路を使わない路線バスとしては日本一運行距離が長い。

目的地の十津川は、人里離れた場所にもかかわらず、日本の歴史でしばしば登場する。例えば南北朝時代。 後醍醐天皇の皇子で鎌倉幕府の倒幕の中心人物だった護良親王が、追っ手を逃れて潜んだ「十津川落ち」の場面では、この地で倒幕の策をめぐらせたとされる。

バスはコバルトブルーの十津川の谷をぬうように走る。途中「谷瀬の吊り橋」の近くで停車し、しばし休憩となった。吊り橋は297・7mと日本有数の長さ。 途中まで渡ったが、高さに足がすくみ戻ってしまった。

再びバスに乗り、しばらくすると、十津川村役場前のバス停に到着。今夜の宿「十津川荘」の主人、平瀬司さんが迎えてくれた。宿は車で約3分の清流沿いにある。

十津川温泉郷は宿のある湯泉地温泉のほか十津川温泉、上湯温泉から成る。湯泉地温泉は最も歴史があり、 古い文書には16世紀に既に湧いていたと記されているそうだ。8室の小さな宿に着いて、早速温泉に向かう。

十津川温泉郷は、2004年に十津川村が「源泉かけ流し宣言」をしたとおり、源泉が湯ぷねに注がれている。内湯の扉を開けると、ふわっと優しい硫黄の香りが漂う。

入る時にはやや熱めだった湯も、肩までつかるとちょうどよい温度だ。十津川の瀬音を聴きながら入る露天風呂もある。湯上がりの肌はすべすべになっていた。

夕食に登場したのは「ぼたん鍋」だ。地元で生息するイノシシの肉を使った鍋で、冬の時期の十津川名物だという。 イワナの骨酒で前菜をつついているうちに、大鍋が登場。まさに「ぼたん色」をしたシシ肉が美しい。 そして見事なまでに美しいキノコ。地元の生産組合が丹念込めて育てたもので、大ぶりなナメコやシメジ、ヒラタケ、エノキも一緒に鍋に入れる。

イノシシの骨を煮詰め味噌を溶いたダシに、肉や野菜をたっぷり入れる。肉は赤身はしっかりとした歯ごたえ。 脂身はぷるぷるしている。臭みは全くなく、甘みがある肉を自家製のポン酢にさっと通していただく。 ぼたん鍋は地方により味付けが違うようだが、当地のものはあっさりとしており、ぺろりと平らげた。

翌朝、またバスに乗り五条に戻ることにした。十津川からさらに新宮方面に進むと、 熊野参詣で知られる熊野本宮大社や和歌山の有名な温泉地・川湯温泉を通るという。いつか奈良から和歌山まで全線乗車しようと思いつつ、帰路についた。

(旅館コンサルタント 井門 隆夫)