十津川の歴史

第一回目は「和州吉野郡十津川郷細見全図」です。

 慶長・正保・元禄・天保の4度、江戸幕府の命で国ごとの絵図が作成されました。このうち天保国絵図は、天保6年(1835)にその作成が命じられ、 同9年(1838年)に完成しました。この絵図はそれと同時期の天保6年11月に完成した十津川郷の絵図になります。

メニュー用GIF画像和州吉野郡十津川郷細見全図(都計五十九箇村)

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和州吉野郡十津川郷細見全図

天保六乙羊霜月中三(1835年11月)

和州吉野郡十津川郷細見全図 部分拡大絵図1部分拡大絵図1

和州吉野郡十津川郷細見全図

大峰山脈の金峰山から上野地までの部分の拡大絵図です。

 金峰山とは、大峰山脈の吉野山から山上ヶ岳までを示す総称で金峯山とも記し、吉野と熊野を結ぶ大峰奥駈道の吉野側の入り口にあたります。 吉野山にある金峯山寺は、金峰山修験本宗の本山で、本尊は蔵王権現、開基は役小角と伝えられています。

 一方、十津川(熊野川)に目をやると、天川村の天ノ川を源流とする十津川には4つの橋が描かれ、 上野地と谷瀬を結ぶ部分には、この頃から既に橋が架かっていたことがわかります。

 現在では、日本最長の生活用吊り橋として有名な谷瀬の吊り橋ですが、 吊り橋が完成する以前は川を渡るたびに谷を下り、丸木橋を渡って対岸の斜面を這い上がらなければならなかったそうで、 洪水のたびに流される丸木橋のあまりの不便さに、教員の初任給が7,800円の時代、地元の住民が1軒当たり20~30万円を出し合い、村の協力を得て建設した 現在の谷瀬の吊り橋が完成したのは、昭和29年(1954年)のことになります。

和州吉野郡十津川郷細見全図 部分拡大絵図2部分拡大絵図2

和州吉野郡十津川郷細見全図

上野地から山崎までの部分の拡大絵図です。

 絵図の中央には風屋と書かれた地名があります。現在は滝川との合流地点の手前に風屋ダムが建設されており、 風屋から小原峰の麓の尾合戸滝あたりまでの水量が制限されています。現在の十津川はこの当時の絵図と比べると、風屋ダムから下流の川幅が狭くなっていることがわかります。

和州吉野郡十津川郷細見全図 部分拡大絵図3部分拡大絵図3

和州吉野郡十津川郷細見全図

山崎から折立までの部分の拡大絵図です。

 湯ノ原と武蔵の地名の横に、温泉アリと書かれているのがわかります。このあたりは現在の湯泉地温泉で、今も当時と変わらず、ほんのりと硫黄の香りがする源泉が豊富に湧き出ています。また、湯ノ原の横には、ユノモト(湯ノ元)の表記もみられ、その隣には「舟ワタシ」の文字がみられます。

かつてこの地には薬師如来を本尊とする東泉寺という寺があり、それが何時しか湯泉地と呼ばれるようになったそうです。

十津川荘は、湯ノ原から十津川村役場のある小原へと続く十津川沿いの、湯泉地温泉の元湯の近くにあります。

和州吉野郡十津川郷細見全図 部分拡大絵図4部分拡大絵図4

和州吉野郡十津川郷細見全図

折立から七色までの部分の拡大絵図です。

 この地図の中央に書かれた、山手から垣内(カイト)あたりが、現在の十津川温泉のある地域です。 猿飼地区の東側には吉野の金峯山寺と熊野本宮大社を結ぶ大峰奥駈道が朱色の線で引かれ、玉置神社の鳥居と共に玉置山が描かれています。

 また、絵図上に書かれた地名の、谷垣内から七色方面へ向かう途中の峠には「天空の郷」と呼ばれる果無集落があり、 世界遺産に登録された高野山と熊野本宮大社を結ぶ小辺路沿いにある小さな集落として、今も観光客の人気を集めています。

 最後に、この「和州吉野郡十津川郷細見全図」を見ると、凡そ180年前の絵図でありながら、今も当時そのままの地名が使われており、 十津川沿いを走る奈良交通の「日本一の走行距離を誇る路線バス」八木新宮特急バスに揺られると、この絵図に書かれた懐かしい名前が バス停ごとにアナウンスされています。