十津川の歴史

第二回目は「紀伊国名所図会」です。

紀伊国名所図会は、江戸時代後期に和歌山城下の書肆(書店)・帯屋伊兵衛(高市志友)によって企画された紀伊国全体に関する地誌で、 紀伊藩領だけでなく高野山寺領についても掲載されています。初編と二編(高市志友編)は文化9年(1812)、三編(加納諸平編)は天保9年(1838)、 後編(加納諸平・神野易興編)は嘉永4年(1851)に、それぞれ刊行されています。 昭和12年(1941)高市志友の子孫志直が未定稿を校訂加筆して熊野編が完成されました。 単に名所だけでなく、広範な地名や寺社について掲載しており、『紀伊続風土記』とならび、江戸時代後期の紀州に関する基本的文献の一つに数えられます。

入鹿の荘

紀伊国名所図会 熊野篇

東北は西山郷に接し、西北は大和十津川に接し、南は花井、尾呂志、大野の三荘に境す、広袤(こうぼう)東西三里ばかり、南北二里余り、 北山川東より来り西に向かって流る、湯口、島津、木津呂、玉置口の四村その両岸に在り、荘中の高峰を入鹿一族山といふ、 また荘中に二ツの小川あり、一は此の山の西南より出で、大河内村を経て花井荘楊枝村に至りて熊野川に入り、一は丸山村の北東半里ばかりに出で、 小栗須、大栗須両村の間を流れて矢ノ川に落合ひ、板屋村を経て北山川に入る、此れを入鹿川といふ、 全荘すべて山澗(山谷)の間に点在すれど、板屋、小栗須、大栗須の邊は土地稍(やや)開けて田園多し。

紀伊国名所図会 (熊野篇)

和州吉野郡十津川郷細見全図 部分拡大絵図

和州吉野郡十津川郷細見全図

前回ご紹介した和州吉野郡十津川郷細見全図の、玉井口から入鹿までの拡大絵図です。

絵図の中央を流れる川は北山川で、県道765沿いを流れる入鹿川を東に向かうと現在は「紀和町小栗須」「紀和町大栗須」 と呼ばれ、熊野市役所紀和庁舎、入鹿八幡宮、入鹿小学校等が点在する入鹿の荘に出ます。

また、入鹿の荘の南側には入鹿荘九ヶ村の持合だった山があり、入鹿頼兼の一族に因んで一族山(大峰山)と呼ばれています。

北山川 奥瀞の急湍

木津呂の集落から少し北山川を遡ると十津川村の景勝地として有名な「瀞八丁」があります。

紀伊国名所図会 熊野篇

瀞八丁

北山川の上流、紀伊、大和、伊勢三国の境を為すところにあり一に玉井峡とも云ふ。

瀞の字はキヨシと訓み古くは淨に通ず、国訓これをトロと云ひ、河水の靜かにたまりたる義に用ひらる。 昔は此所を八丁泥など稱へて(讃えて)泥の字を用ひしはただ発音上濁音として 假用(かよう)せしに因るのみなれば、切離し呼ぶ時は清みて「トロ」と稱ふべきなるに、我地方往々ドロと訛稱するの非なること元より論を俟たず。

奥瀞

更に川を泝りて小松より小森に至るもの之を奥瀞と為す、小松村は小森の西三十数丁にありて 村居は北山川屈曲の中にあり、襲越の瀧、上の瀧、下の瀧、神護の瀧、一の瀧、音法の瀧など 河中随所にありて、是より上流は石灘または飛泉の為船を上すを得ず、然れとも峽谷はさながら 武陵の桃源に似ていけどもいけども盡きる(尽きる)を知らず、人跡まれなる熊野の奥此の 絶勝この奇境、奥瀞の神秘を尋ねてころ茲に始めて瀞峡の全貌と其の眞價を知り得べきなり。

紀伊国名所図会 (熊野篇)


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